本書は 1996 年に,はまの出版から刊行された『中国の子供はどう中国語を覚えるか』を一部加筆・修正し,再刊行したものです。
※ためし読みの色は実際の書籍とは異なります。
はじめに
❦ ママ,この道ないよ
妈妈,这路没有!
Māma, zhè lù méiyǒu!
4歳になった娘の京京が,ある日こんなことを言いました。保育園から彼女を引き取り,自転車でいつもの道を走っていたときのことです。その日はちょうど道路工事をしていて歩行者や自転車は舗道の外を迂回しなければなりませんでした。京京はこのようすを見て「ここの道がなくなっちゃったよ」と言いたかったのです。でもこれは正しくない中国語です。ほんとうは[这儿没有路了。 Zhèr méiyǒu lù le.]と言わなくてはなりません。
彼女のまちがいは日本人のよくするまちがいと同じでした。つまり「ここの道がなくなった」という日本語の語順と同じなのです。同じ年の子供でも,本国で生活している子供ならばおかすことのないまちがいです。
京京は1991年8月,東京で生まれました。いまはもう17歳になっています。日本で生まれ,幼い時期を過ごしたあのころ,まだたどたどしく話をしていたあのころはもうずいぶん遠い昔のことになりました。でも私にはいまも昨日のことのように思えるのです。
京京は7年間,日本で生活しました。その間,一時帰国して半年ほど北京で暮らしましたが,そのとき以外はだいたい日本で生活していました。そんなわけで,彼女は生まれたときから日本語の環境で生活していたのです。
京京の日本語歴は私のおなかの中にいたときから始まっていました。当時私は来日したばかりで,大学の日本語教室に通っていました。大きなおなかをかかえて勉強していたので,よく「一人分の授業料で二人が勉強している」などと同級生にからかわれたものです。
生まれて7か月で保育園に入り,それからは保育園でも日本語,家の外でも日本語,テレビも日本語と,日本語ばかりとなりました。もちろん,日本に住んでいるのですから,日本語が日常の大部分を占めるのは当然のことです。しかし,日本語に押されて中国語が話せなくなったりしないように,私と夫は娘が赤ちゃんのころから中国語を使って話をするように心がけました。言葉ができなければその国の人間としての意識が形成されないと思ったからです。
こうして,彼女は家の中では中国語,外に出れば日本語という言語環境で生活するはめになったのです。
彼女はよく中国語と日本語をまぜこぜにして話をしていました。あるときも絵本を見ながらこう言いました。
这是小鸟,这是ウサギさん。
Zhè shì xiǎoniǎo, zhè shì usagisan.
(これは小鳥,これはウサギさん)
京京は「ウサギさん」の中国語を知っています。
妈妈:ウサギさん用中文怎么说?
Usagisan yòng Zhōngwén zénme shuō?
(ウサギさんは中国語でなんて言うの?)
京京:小白兔。
Xiǎobáitù.
このようにできるだけ確認させ,教えていきました。でも,逆に,中国へ帰ったときは日本語で話しかける努力をしていました。中国では,日本にいるときとは反対に中国語の環境になり,自然と京京もほとんど日本語を使わなくなります。彼女は日本で生活するというチャンスに恵まれたのですから,せっかく覚えた日本語を忘れないでほしいと思ったのです。
人間の記憶でいちばん古いのはいつなのか,わかりません。けれど,日本で過ごした7年間は彼女の心にしっかり残り,いまもあのころ一家で住んでいた大家さんのおばあさんのことを京京はよく覚えていますし,最近は『世界に一つだけの花』がお気に入り,日本語で歌うことができます。
❦ 東京も北京も京京が好き
京京のほんとうの名前は[汪海曦 Wāng Hǎixī]といいます(汪は夫の姓で,伝統的に夫婦別姓の中国では,子供は父の姓を名のるのが一般的です)。この名前を日本語で読むと「かいぎ」となり,なんだか会議のようで堅苦しい感じがしてしまうのと,[曦 xī]の字が日本人にとってあまりなじみがないということもあり,私たちは彼女に[京京 Jīngjīng]という[小名 xiǎomíng](幼名)をつけました。
[小名]は子供時代の愛称として[大名 dàmíng](本名)のほかにつけるもので,日本の「○○ちゃん」というような愛称に似ています。
[小名]はたいていだれでも持っています。ちなみに私は4人姉妹の3番目なので,小さいころは[三三 Sānsan]と呼ばれ,妹は[小四儿 Xiǎo Sìr]と呼ばれていました。[小名]のつけ方はとても自由で,私のいちばん上の姉の子で,京京の[表哥 biǎogë](姓の異なるいとこ)にあたる男の子は,トラ年生まれなので[大虎 Dàhǔ]と呼ばれています。妹の娘の[小名]は[小叮当 Xiǎodīngdāng]といいます。この名は昔《小叮当》というタイトルの映画があり,タイトルと同名の主人公の少女がかわいらしかったこと,そして[叮]が妹の夫の姓である[丁 Dīng]と字が似ていて発音が同じだからということ(姪は母の姓である李を継ぎました),また[dīngdāng]は鈴の音を表す擬音語で,聞いた感じがとてもきれいだからという理由もあります。[小名]は80年代以降,同じ字を二つ重ねて,かわいらしく美しい響きになる名前がよくつけられるようになりました。たとえば[洋洋 Yángyang][明明 Míngming][笑笑 Xiàoxiao]のように。私の京京も時代の流行に乗ったわけです。
京京の名は,90年代の私たちが故郷とする北京と,生活している東京に共通する京の字にちなんだものです。京京は3歳半のとき,自分の名である京の字をいつの間にか覚えていました。それは,東京にいても北京にいても,町のあちこちでこの字を見かけるので,私たちが教えるより先,自然に覚えてしまったのです。
京京:妈妈,看“京”!
Māma, kàn “jīng”!
(ママ,見て京だよ)
妈妈:对,那是东京的京。
Duì, nà shì Dōngjīng de jīng.
(そうね,あれは東京の京よ)
北京に帰っても京の字があり,私は[那是北京的京。 Nà shì Běijīng de jīng.](あれは北京の京よ)と教えていました。あるとき,彼女はこんなふうに尋ねました。
妈妈,为什么东京也有我,北京也有我呀?
Māma, wèi shénme Dōngjīng yě yǒu wǒ, Běijīng yě yǒu wǒ ya?
(ママ,どうして東京にも私があって,北京にも私があるの?)
因为东京也喜欢你,北京也喜欢你呀。
Yīnwèi Dōngjīng yě xoehuan noe, Běijīng yě xoehuan noe ya.
(それはね,東京もあなたのことが好き,北京もあなたのことが好きだからよ)
すると彼女はとても得意そうな顔をしました。京京の名は本人にとっても重要な意味を持つようになったのです。[京京]は中国語ではjīngjīng と発音し,日本では「きょうきょう」とか「きょうちゃん」などと呼んでいますが,本書中ではおもに京京と表記します。
❦ どうしてテレビは中国語をしゃべらないの?
4歳になってから京京は[为什么 wèi shénme](なぜ)をよく使うようになりました。その年の秋,2週間ほど北京の[娘家 niángjiā](私の実家)に帰り,再び東京にもどってきたとき,京京はこんな質問を投げかけてきました。
为什么电视里不说中文?
Wèi shénme diànshìli bù shuō Zhōngwén?
(どうしてテレビは中国語をしゃべらないの?)
为什么日本的おばあさん和姥姥说话不一样?
Wèi shénme Rìběn de obaasan hé lǎolao shuō huà bù yíyàng?
(どうして日本のおばあさんと[姥姥]は話す言葉が違うの?)
[姥姥 lǎolao]は母方の祖母の意味で,北京に住んでいる私の母のことを指します。「日本のおばあさん」は私たちが住んでいたアパートの大家さんのことです。北京のおばあさんはもちろんのこと,日本の大家さんのおばあさんも娘を「京ちゃん」と呼んでとてもかわいがってくれ,京京もよくなついていました。また,京京はテレビが大好き。コマーシャルのキャッチフレーズはよく覚えるし,当時はアニメの『セーラームーン』に夢中でした。北京のおうちで見るテレビは中国語でしゃべっているのに,日本に来ると中国語ではありません。北京のおばあさんも,大家さんのおばあさんも大好きだけれど,どうしてしゃべっている言葉が違うのかしら。
因为姥姥是中国人,おばあさん是日本人。
Yīnwèi lǎolao shì Zhōngguórén, obaasan shì Rìběnrén.
([姥姥]は中国人で,おばあさんは日本人だからよ)
と説明しても4歳の彼女にはわかりません。小さな京京の心には国境も民族もないのです。あるのはやさしいおばあちゃんたちと大好きなテレビだけ。彼女はそのとき,ごく自然に日本語と中国語をあやつって生活していました。国や民族のことはわからなくても,世の中に[说中文的人 shuō Zhōngwén de rén](中国語を話す人)と[说日文的人 shuō Rìwén de rén](日本語を話す人)がいて,中国語を話す人には中国語で,日本語を話す人には日本語で話をすればいいのだということが,だんだんとわかってきたのでした。
京京は二つの言語を日常生活から覚えていきましたが,おとなになって外国語を学ぶとしたら,ふつうは大学や専門学校の教室で先生についてテキストを見ながら勉強するものです。しかし,だれでも母語は日常のあらゆる営みの中から育み身につけていくものです。だからこそ言葉に血が通い,微妙なニュアンスが生まれてくるのです。さらに本や先生から学んでいけば,言語表現はより豊かに,より高度になっていくでしょう。子供も初めは簡単な単語から覚え,まちがいを繰り返しながらやがて長いセンテンスで意思を伝えることができるようになるのです。
❦ ブロック遊びと道路工事
道路工事のために[没有路 méiyǒu lù]だった道が,工事が終わって通れるようになった日のこと,京京は補修の跡を見つけて言いました。
看! 装进去了。
Kàn! Zhuāngjinqu le.
(見て,はまってる)
彼女は開いていた穴が「埋まっている」と表現したかったのでした。正しくは[补好了。 Bǔhǎo le.](補修できている)と言わなければなりません。この[装 zhuāng]はおもちゃのブロックや積み木で遊ぶときよく使う動詞で,ブロックがカチッとはまったり,積み木がうまく組み合わさったとき,[进去](入っていく)という補助の動詞をつけて[装进去](はまった)と言っているのです。
彼女が積み木遊びで使っている動詞は[装],[拼 pīn](組み合わせる),[搭 dā](積み重ねる)くらいしかなく,[补](補充する,補修する),[填 tián](埋める)はまだむずかしかったのです。
彼女は子供らしい発想で[装]という動詞を動員し,表現しようとこころみたのです。もちろん,ティーンエイジャーになったいまでは道路工事の跡を見て[装进去]と言ったりすることはありません。これが子供の言語学習の過程なのです。
子供がどんな状況で言葉を覚え,それを発展させていくか,つまり「子供が言葉を理解し話せるようになる過程」を知ることが,きっと中国語学習のステップアップに役立つと,私は信じています。本書は,幼いころ,日本で生活していた私の娘を中心に,彼女の中国語の先生となってくれたおいの大虎や,私自身の体験もまじえてお話を進めていきます。
ご存じのように中国は国土が広く,人口も多く,言葉は地方や生活レベルによってかなり違いがあります。北京から高速列車でたった30分の距離にある天津でさえ,日常話している言葉が違います。京京が話している中国語は私たち父母や,私の実家である李家の教えのもとに培われたものです。また[拼音 pīnyīn]表記については,中国社会科学院言語研究所の正書法に準じ,なるべく実際に即したかたちでつけています。これらのことを先におことわりしてから,お話を始めましょう。
北京市生まれ。1984年北京師範大学中国語言文学系卒業,同校中国語センター講師を経て,1986年中国中央人民広播電台の編集記者となる。1989年来日,大学書林国際語学アカデミーの中国語講師となる。現在,カナダ・バンクーバーWest Vancouver School District Community Learningの中国語講師。
著書に,『聴いて,話すための——中国語基本単語プラス2000』(語研刊)がある。
東京生まれ。1975年武蔵野美術短期大学卒業後,1984〜85年中国・山西大学に語学留学。現在,日中学院講師,翻訳家。
主な訳書に『纏足』(馮驥才著,小学館文庫),『中国農民調査』(共訳。陳桂棣,春桃著,文藝春秋)など。